情報社会学

2016年4月 3日 (日)

インターネットによる社会の小衆化

 4月3日のTBSサンデーモーニング「風をよむ」でコメントをさせていただきました。

 私はネットの普及をしてきた立場ですし、ネットによってもたらされる社会の変化を肯定的にとらえています。

 とはいえ、変化には色々な面があります。大きくとらえれば「近代」が終わり新しい時代がやってくるともいえる変化ですが、当然副作用もあるわけです。この副作用を予言したのがCass R. Sunsteinの「Republic.com」です。

 タイトルにあるRepublicは「共和国」ではなく「共同体」のほうです。語源であるラテン語の「res publica」と同じ意味で使われています。 Sunsteinは、ネットがグループ討議を促し、リスキーシフトによる集団極性化を加速させると警告しています。

 ネットはプル型メディアであるため、マスコミのようなプッシュ型メディアよりも極度に選択的接触が進みます。そしてネットには情報が溢れています。ある意見に対して、反対も賛成も、陰謀論もねつ造情報もあります。ネットがプル型メディアである以上、人は自ら好む情報を容易に接種できる一方、気に入らない情報は容易に排除できます。自ら望んで手に入れた情報は、たとえそれが間違っていたとしても、その人にとっては正義になってしまいまい、誤解と偏見を助長していくでしょう。

 そしてネットでは同じような考えの人とつながるのも容易です。1000人に1人しかいないようなマイナーな考え・趣味嗜好の人でもネットで利用すれば容易に結びつくことができます。それはそれで素晴らしいことですが、同調しあい、話し合ううちにリスキーシフトを起こすリスクがあるのだ、ということに気づかないと、いつの間にか怒りの渦に巻き込まれ、極性化した集団の一部となってしまいます。

 いま日本でも米国でも欧州でも、必ずしもネットが原因ではないにしろ、社会が分断され小さい同質性を持つ集団同士が争いをはじめています。日本では排外主義の台頭のほかに、排外主義者に対しての暴力を肯定する集団、多様性を求めているはずが多様性の一部である意見を攻撃する集団、科学的無知に基づく誤解を誤解と気づかないまま、誤解を正そうとする人たちへの侮辱を止めない集団、平和を求めているはずが死ねとか叩き斬るとかいう暴言を繰り返す集団、多種多様な小衆ができあがり、その中でグループ討議からの集団極性化、そして現実世界での暴力や暴言にまで至るようになりました。みな自分は正しいと信じ、違った意見への寛容性を失い、彼らの価値観からみて間違ったものへの侮辱・暴言を苦としないという共通点を持ちます。

 私は自分自身が普及の一端を担ったネットという装置が、人を狂わせ、社会を壊すということが残念でたまりません。人は、実に弱いもので、間違いを犯し、真実を知りたいのではなく、自分の思いこみが正しいと誤解させてくれる情報を好むものなのだ、ということを痛感させられます。

 一度、みな冷静になって、日本における「res publica」とは何かを考えるときになったのかもしれません。

#4月4日に加筆しました。

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2015年9月 2日 (水)

東京五輪ロゴ騒動とインターネット

 東京五輪ロゴについて、今回の騒動はネットの検証力が注目された事件でした。

 ネット、特にウェブは論文の相互参照のために作られた仕組みです。論文の世界では相互チェックの機能が働きます。特に自然科学の世界では発表された論文を複数の科学者が追試をしてその確からしさを検証します。昨年騒動になったSTAP細胞騒動がその典型例です。私自身も社会学の門前に立っているところで、学問の世界の厳しさを痛感しているところでもあります。

 今回の騒動はいわゆるネット右翼やネット左翼などの動き(排他的で攻撃的なサイバーカスケード)とはちがいます*1。五輪を盛り上げたい、祝祭としてお祝いしたいという意識が一般の人たちに広がった結果です。佐野さんのロゴが”良いロゴ””ワクワクするロゴ”だったらみんな擁護したはずです。パクリだろうが何だろうがこれでいこうとなったはず。でも一部の方以外からは擁護の声を聴くことはありませんでした。あのロゴは良いものなのか、という疑問がやがて佐野さんの過去の実績の検証につながります。

 ベルギーの博物館からの提訴に関して佐野さんは「私はパクったことはない」と断言されていました。しかしトートバックでの盗用、展開例での羽田空港や渋谷の写真での盗用が明らかになると、やはり佐野さんは信頼できる人ではないという結論にいたり、いわゆる炎上状態となります。

 羽田や渋谷の写真を使いたいなら自分で撮りに行けばよいだけの話。ちょっとした手間をなぜ惜しんでしまったのか謎です。その他の仕事の雑さをみると、そういうデザイナーとしての当り前の手間暇を常日頃からやっていたのかという疑問がわくのは当り前で、プロとしての技量に対して批判があつまってしまうのもやむを得ないことです。

 今回の騒動は「ぱくりかどうか」が問題だったのではなく「東京五輪のロゴとしてふさわしいかどうか」という議論でした。しかし佐野さんの過去の仕事の品質が、五輪のロゴ作者として相応しいと判断されるには不十分だったということです。ロゴは白紙撤回され、再度公募が行われます。新しいロゴが素晴らしいものであれば今回の騒動は「そういうこともあったね」という笑い話になるでしょう。


*1 サイバーカスケードに至るまでのグループ討議や集団極性化が認めれらず、”私はパクったことがない”という佐野さんの言葉に対する検証のみがおこなわれたのが今回の騒動の特長です。

*ネットでの検証によって嘘がばれた事件として米国でのラザーゲート事件(参考:http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/09/post_17.html)があります。

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2015年6月 3日 (水)

ネットと選挙:プル型メディアとしてのウェブを考える

 昨晩、2015年6月2日に行われたICPFの「統一地方選挙におけるネット選挙運動を振り返る」のフォローです。

 昨晩のICPFではサイバーカスケードのほかにネット選挙におけるプル型メディアとしてのウェブの役割について投げかけをしてみました。

 サイバーカスケードもプル型メディアもそんな新しい概念ではなく、ネットが普及し始めたあたりから社会学界隈では盛んに取り上げられてきた話題です。最近では鈴木謙介先生の「ウェブ社会のゆくえ<多孔化>した現実のなかで」で提唱された多孔化なんかがキーワードになります。

 ネットには情報があふれています。テレビのように一方的に送りつけられてくるものではないため、自ら好きな情報だけに接触することが可能です。これをネットと選挙という切り口で考えた場合、有権者に候補者の情報をプルしてもらうためには、街頭演説や戸別訪問、ミニ集会などで知名度を上げる必要があります。電通が提唱したAISASモデルがありますが、興味関心のあとに検索がきますので、いくら立派なウェブサイトをつくったところで、有権者にプルしてもらわなければ宝の持ち腐れです。

 「選挙結果に対するネットの影響はだいたい多くて10%、普通は5%ぐらい」という経験則があります。くさま剛先生のウェブサイトの投票日当日のアクセス数が900弱ということだったので、得票数が12,957ですから、大体6.94%の方が当日くさまさんのことを検索して、投票所に向かったということがいえます。

 候補者のウェブでの情報発信が十分でなければ、有権者は検索結果に出てきたジャンク情報をみて投票をやめてしまうかもしれません。実際いくつかの選挙においてネットのジャンク情報によって票を減らして落選された方もいます。

 「ネットだけでは当選できないが、ネットをちゃんと使わないと表を減らします。」というのが昨日のICPFでの私の投げかけでした。
  
 
 
  

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ネットと政治とサイバーカスケード

 昨晩、2015年6月2日にICPFの「統一地方選挙におけるネット選挙運動を振り返る」でおときた駿先生とくさま剛とともにネット選挙についてお話をしてきました。

 私が投げかけた「サイバーカスケード」についておときた先生がブログで言及されていたのでフォローしたいと思います。

 サイバーカスケードはキャス・サンスティーンが著書のRepublic.comで提唱した概念です。Republic.comは翻訳されインターネットは民主主義の敵かという邦題で販売されています。

 サンスティーンは「それまでの社会はマスコミから流れる情報により「共通体験」があり、それが社会に一体化を生んでいた」としています。しかし「ネットの登場により選択的接触が容易になることで時間的・空間的制約がなくなり、同調性が高まるクラスタが沢山できる」としています。クラスタ内では少数派は排除され、グループ討議による集団極性化が頻発するようになるという警鐘をならしました。サンスティーンは、クラスタ上の何気ない同調が”あるとき突然”に極端な攻撃的行動に変化することを、せせらぎが滝のように極端に変化することにたとえて「サイバーカスケード」と名づけています。

 日本では極端は排外主義や極端な反原発運動(補足:あくまで”極端な”です)などがサイバーカスケードの1つといえます。

 おときた先生のように賢い人は自分に対しての苦言をちゃんと理解し、なぜそのように言われるかということを想像することができます。だからおときた先生がサイバーカスケードに巻き込まれるということはないでしょう。問題はそこではなく、すでにサイバーカスケードを起こしている集団に対してどう政治としてアプローチしていくか、また一部の政治家がその渦にまきこまれて自ら扇動役になってしまっている現状をどう打開するかにあります。

 対排外主義に対しては「あいつらの意見はまちがっているから封殺してしまえ」という意見をよく目にしますが、それ自身サイバーカスケードの反対側を扇動しているだけです。政治としてアプローチする場合、なぜそのようなクラスタが出来上がったのか、そこでどういう極論が採用されているのか、そしてその議論の根本には何があってどう解決していくべきなのかという視点が重要になります。

 2020年には東京オリンピックが開催されます。人種差別、民族差別については国際的な関心も高まります。もちろん原発についても話題になっていくでしょう。人間というのはネットを使うとサイバーカスケードを起こしてしまうものなのだということ、人間というのはエラーを持っているのだという前提で今後のネットと政治についての関係が議論されるべきですね、というのが昨晩の私の投げかけでした。


 (参考:田代光輝・ネット選挙解禁は目的を達したか-プル型メディアとしてのネットとクラスタの顕在化-



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2015年5月19日 (火)

大阪都構想ってシルバー民主主義で否決されたのでしょうか?ちょっと検証してみました。

 2015年5月17日に大阪市で大阪都構想に対する住民投票が行われ、反対多数で否決されました。ネット方面をウォッチしてみると「反対は70代以上だけで、他の年代はみな賛成だった」といういわゆるシルバー民主主義への憂いにあふれています。

 まずはこちら、読売テレビが放送した読売テレビと読売新聞の共同調査の数字をグラフに起こしてみました。

2015y05m18d_232825079


 たしかに20代~60代まで男女ともに賛成が反対を上回っています。、これを正しい調査結果だとしてみるとシルバー民主主義ですねぇという感想が出てくるのは自然です。

 でもちょっと待ってください。はたしてこれは適切なグラフなのでしょうか?年代別の人口や投票率がまったく考慮されておらず、投票した人を100として割合を出しただけのグラフです。なにやら怪しいグラフだなぁととおもったので、大阪市の世代別の人口と、平成23年の大阪市長選挙の年代別投票率調査の結果から推測してみました。これらデータを少し補正(後述)をかけた結果が下記のグラフです。

2015y05m19d_000353083

 20代少なっ!!ってのはよく分かります。有権者数はそれほど差が出ていないにも関わらず低い投票率のせいで賛成も反対の「結果に影響するほど十分な投票数がある」とは言い難い結果になりました。また、70代女性の反対票の多さというのもわかります。最終的な逆転は女性の70代で起こったように見えるので、早速ですが累計グラフを作って確認してみました。

 
2015y05m18d_235822116


 なるほど、最後の70代の男女で逆転されていますが、だからといってこれがシルバー民主主義だといっていいものかどうか私には判断できません。40代のアドバンテージが70代で逆転したといってもいいのでは?

 以上、ざっと調べてみて手に入れられるデータで推測値を作ってみましたが、さて真相は如何に?


【補正方法】
 読売テレビの調査は当日の出口調査ということでしたので、期日前の調査のデータを参考にさせていただいて、期日前投票の推定値として男女別・年代別のデータを作りました。期日前の推定値として17%、読売テレビのデータを投票日当日の推定値として83%をかけて合算しました。最後に賛成票に103%反対票に114%をかけて合計数を実数に合わせ、増えた分を棄権から差し引いて(市長選の投票率は55%なので11%上澄みが必要)理論値としました。

謝辞:アドバイスいただいた実積先生ありがとー♪
 
 

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2013年11月19日 (火)

情報倫理ーネットの炎上予防と対策ー いよいよ出版です

 7月に書き終えた「情報倫理 -ネットの炎上予防と対策 」、2013年11月22日発売開始です。

 文系向けに書いたので技術的ではなく社会学寄りになっています。

 難しいことを書かず比較的読みやすく仕上げました。とはいえ色々不足している部分もありますので、皆様からの指導・ご指摘いただきたく、お願い申し上げます。


 序章 ネットの炎上予防と対策のための情報倫理

 1章 社会と情報についての基礎

 2章 インターネット(技術編)

 3章 インターネット(ビジネス編) 接続ビジネス

 4章 インターネット(ビジネス編) コンテンツサービス

 5章 法律と権利

 6章 ソーシャルネットワークサービス

 7章 スモールワールドとスケールフリーネットワーク

 9章 ストックとフロー

 10章 ネットトラブル

 11章 ネットトラブル(コミュニケーションに関するトラブル)

 12章 炎上過程と炎上事例

 13章 炎上の構造と収め方

 14章 政治とインターネット(ネット選挙)

 終章 まとめ



 という構成になっています。

 ネットの基本的なところは押さえられたかなぁと思っています。最近、大学生の炎上が多いので、情報倫理や情報リテラシー系の授業でぜひご活用ください。
 

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2010年8月14日 (土)

ブロードバンド普及率・FTTH普及率と所得の関係 2010年3月末バージョン

 論文作成用に2010年3月末時点の、ブロードバンド契約数・FTTH契約数を総合通信局より持ってきて、県別の平均所得と世帯数を掛け合わせてデータを作りました。

 ブロードバンド・FTTHともに県別でみると普及率と平均所得に相関が有ります。

2010y08m14d_193019578


「20103bb.xls」をダウンロード

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2010年8月12日 (木)

ネットによる大衆の小衆化

 Cass Sunstein 氏の著書「インターネットは民主主義の敵か」には集団分極化によるサイバーカスケードの危険性など、インターネットに対する数々の警鐘が鳴らされている。

 インターネットは多くの人をつなぎ合わせ、大量の情報を与えてくれるメディアである。しかしその一方情報が過剰に供給されることで、人々は自分にたいして心地よい情報しかとらないようになり(デイリーミー現象)、また自分にとって心地よい人間としかつながらなくなるようになる。これにより大衆は心地よい情報ごとに集団化し、グループ討議を通じてリスキーシフトを起こす。これは討議を疎外し民主主義社会をこわすのではないかというのが氏の主張である。

 ネットによる大衆の分断化(小衆化)は実際の問題として進んでおり、様々な場面でその問題に当たることがある。リスキーシフトが起こることによるサイバーカスケードは”炎上”とよばれる執拗な攻撃行動になって現れるし、ネット上の意見が保守化する”ネット右翼”現象などもネットが作り出した小衆の1つといえるだろう。

 しかし、多くの場面でこの危険性を考慮しないケースが後をたたない。逆に小衆をあつめて「成功」とみなすケースもあるほどである。小さい商店などではそれほど大量の動員が必要なわけでもなく、また余計なマイナス情報を集める必要も無いので「小衆」を集めるだけで十分なのだが、それなりの規模・責任のある組織・人ではそうもいっていられない。さらには組織のリーダーが自らに都合の良い意見だけを集めてしまい、選択を誤ってしまうケースも散見される。

 典型例として揚げられるものが2000年11月の加藤の乱である。2chなどのネット利用に長けていた加藤氏は自身のホームページに寄せられる意見、また2ch上の氏への支持意見を見て「これが世論である」と勘違いし倒閣運動へ走ったとされている。しかしそれはネット上のゴクゴク小さい小衆の意見であって”世論”でもなく、また小衆意見に同意する議員も少なく、乱は不発に終わった。

 人は自分に心地よい情報により積極的に接する傾向があるのだから、加藤氏のHPを見ている時点で彼の支持者である確率が高い。また2chなどのスレッドにしても森内閣に対して不支持の人が集まっている場での議論をみれば加藤氏の行動に支持があつまるのは当然で、それを持って自分が世論に支持されている勘違いしてしまうのはやむをえないが、悲しい現実である。

 逆に自分に対して耳障りな意見などを排除してしまうのも人の傾向である。twitterなどでは有名人たちが自分への耳障りな意見をいてくるものに対して、一時は相手をするもののやがて「ブロック」してしまうことはしばしばであるし(どうも無視するということが出来ないらしい)、ブログ等でも攻撃が恐いという理由でコメント欄を閉じてしまうことも良く見かけることだ。自らに不利な情報に耳をふさぎ、心地よい情報だけを得る。戦前の日本の失敗そのものがいままたネットで繰り返されているのだから、人間はあまり進歩していないのかもしれない。


 これらの問題を防止するためには、1つは情報をネットに偏らずに広く集める努力、またネット上の議論はしばしばリスキーシフトを起こすという認識、また賛否が分かれそうなときはネット上で賛否を闘わせること自体はサイバーカスケードを起こす要因となるので賛否を分けて意見収集・議論(スレッドを分けるなど)をして不要な攻撃行動をさせないなどが必要になる。

 ネットによる擬似的な直接民主主義に対する期待は大きいが、結論から言えば今はリスクを洗い出す段階であり、実現性は低い。いくつかのトライアンドエラーを繰り返した上に民主主義の敵ではないインターネット利用の方法が示されるであろう。

 
 

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2010年7月15日 (木)

ネットの普及と所得

 2002年の段階ではホワイトカラーはパソコンで、ブルーカラーは携帯電話を使ってインターネットを利用していた。現在ではiPhoneなどのスマートフォンがパソコンのそれに変わっているだろう。
 
 
 すこし前だが、インターネットの普及を促進させるためにどのような施策が必要かを検討するにあたり、県別のブロードバンドの普及率を調査した。図1は総務省発表のデータを引用した2002年度県別のブロードバンド゙の普及率(回線数/世帯数)だが、東京神奈川など関東の普及率が高く、続いて愛知・三重・静岡の東海、普及がすすんでいないのが鹿児島など九州が低いというデータが読み取れる。いくつかの仮説をたて、なぜ地域差がこれほどにまで広がっているかを検証したが、もっとも相関係数が高かったのが平均所得との関係である。

 図2は厚労省発表の県別の平均所得の数値と図1のデータの数値を散布図にしたものだが、回帰式0.14x-0.21相関指数0.63が得られた。ブロードバンドの用途はパソコンを介したインターネット利用であることから、パソコンは当時はそれなりの価格(1台30万円程度)であったために可処分所得が多くないと持てない事、パソコンを仕事でも利用している層はホワイトカラー層や都市部の管理部門の人間などでそれら層は必然的に所得が多いこと、インターネットという新しいメディアを理解するためにはある程度の知識が必要であり、知識を理解できる程度の能力があれば必然的に所得が高いこと(IQと所得にも相関がある)などがこの関係性を作ったと考えられる。

 比較のために携帯電話の普及率を同じ散布図にプロットしたのが図3である。ブロードバンドの普及と比較すると所得の低い件でも普及が進んでいることが読み取れる。携帯電話は初期コストがほとんど要らずに購入できたこと、パソコンとは違い通話目的で購入されること、操作が簡単で特に専門的な知識が必要でないことなどが低所得層にも普及した原因としてあげることが出来る。当時は携帯電話は「馬鹿が使うパソコン」などともいわれていた。

 この傾向を理解すると、パソコンサイトと携帯サイトでの利用動体の違いが理解できる。通販や広告売上の単価の違い、コミュニティでの議論の方向性の違いなどはこの所得差=社会階層の違いとも理解できる。携帯向けのネットサービスではストラップ1本売るのに苦労するという話しは当時の関係者からよく聞いた話だ。パソコンのコンテンツ売上の大部分が(-社外秘情報につき自粛-)であるのに対して、電子書籍の猥褻なものが携帯では良く売れるという現象もパソコン利用層と携帯利用層の違いをあらわしている。


 詳細のデータを手にしていないので分析できていないが、FTTHの普及率やiPhoneなどのスマートフォンが”パソコン”に置き換わっているのではないかと予測される。iPhoneアプリが有料でも良く売れたというのは可処分所得がある程度ある層がおおかったからではないかと思われる。またネットサービスではtwitterやfacebookなども同じ様な傾向を示すだろうと予測される。

 インターネットの普及が一巡し、これからは普及そのものではなくてパイの取り合いとなる。その際にどの層にアプローチできるかが今後の勝負の行方を左右するだろう。
  
 
BB1
【図1】 2002年度の県別ブロードバンド普及率


BB
【図2】 2002年の県別のブロードバンド普及率と県別の平均所得の相関図


Mobile
【図3】 2002年の県別の携帯電話普及率と県別の平均所得の相関図
  
 
 

 
  

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2010年6月30日 (水)

ネットと選挙 政治とネット

 ネット選挙解禁の議論で、「選挙を楽に戦いたいから解禁する」という主旨の発言をする政治家が多い。ネット選挙解禁は有権者が正しい判断をするための手段であって、政治家が楽をするためにあるのではない。むしろ政治家は大変になる。


 公職選挙法の改正によるネットの選挙活動への利用解禁(以下:ネット選挙解禁)は、自民党時代から議論され電子メールの利用解禁以外では自民・民主が合意していることから改正はまもなくだろうという期待がひろがっていたが、いまだに改正されていない。本国会でも議論が進んだが、終盤の政局によって廃案となってしまった。次の国会では成立しそうな流れであり、歓迎したい。

 一連の議論の中で気になるのが「選挙を楽に戦いたいから解禁しよう」という政治家が少なからず存在することだ。いくつかの政治家(議員や元議員)が登壇する勉強会に参加させていただく機会があったのだが、「選挙にはお金がかかる」から始まり「チラシやポスターなどは制限が有り、自分をアピールするのは大変」「マスコミの情報で当落がきまる」など、現行の選挙精度での苦労話をする方が多い。しかもネットに対しては”単なる利用者視点”しかもっておらず、ネットの普及による社会の変化に対する洞察がない方がほとんどだ。

 このような認識の議員・元議員に対して、質疑応答で「お前たちが楽をするためにネット選挙解禁をするのではない」と叱咤が飛んだこともあったが、彼らのレベルが低いのではなく、政治家のネットに対しての認識はたぶんその程度なのだろうと理解したほうが自然であろうとあきらめつつも、ネット選挙解禁に対する政治家側の期待と有権者側の期待の微妙なずれが常に気になっていた。

 選挙とは国民国家を支える機能であり、近代において(注:現在はまだ近代であるという学説を踏襲する)最も象徴的な制度である。近代を定義づけるものはいくつかある。近代は主に産業化と国民国家形成などがその定義とされているが、メディア視点でみれば新聞の普及も近代社会形成の重要な要素だ。新聞により情報がより効率的に共有されることで世論が形成され、国民国家が成立・維持される。テレビやラジオなども含めたマスメディアは世論形成=アジェンダセッティングがその力の源泉であり、社会から求められている役割である。

 ではネットの登場は「近代」において何を意味するのか。マスメディアとネットの決定的違いはプッシュ型メディアであるかプル型メディアであるかである。マスメディアはプル型メディアであるがゆえにアジェンダをセッティングする力があるが、ネットはプル型メディアであるがゆえに個々の興味・関心によって情報を引き出すための機能においてはマスメディアより優れているが、逆に興味・関心のないものに対して働きかける力は弱い。ネットが「島宇宙」とか「大衆ではなくて分断された小衆」のためのメディアなどとも呼ばれていることや、サイバーカスケード=炎上などのトラブルを引き起こしやすいのはそれゆえだ。

 ネットは社会全体のアジェンダをセッティングする機能ではなく、セッティングされたアジェンダを議論する場であると考えれば、ネットは「近代」において大衆がアジェンダに沿って一方向に向かうことで国民国家が成立していたことを突き崩し、大衆の島宇宙化、分断され細分化された小衆を形成する機能であり、ひいては「地域としての国家」をつき崩す役割を果たすであろう。

 さて話しをネット選挙解禁にもどすとすると、ネット選挙解禁は政治に何をもたらすかが課題である。過去の選挙は政権交代や郵政民営化などの争点が存在した。これは選挙が候補者本人の選挙活動を通じたアジェンダよりもマスメディアがセッティングしたアジェンダが優先されている証左で、前述の政治家の発言とも通じる。逆にいえば候補者はマスメディアがセッティングしてくれたアジェンダに沿って選挙活動していればよく、○○チルドレンなどとよばれる政治能力が明らかにかけているだろうと思われる人々がバッチをつける結果はこれから生まれたといっても過言ではない。

 ではネット選挙が解禁になったら選挙はどうなるか。マスメディアはアジェンダセッティングの役割からは離れないだろうが現在のように争点を決める機能は弱まり「選挙がある」というアジェンダのみを提供する機能に収縮していくだろう。個々の関心はさまざまである以上、ネットの登場によりマスメディアが今までやってきた大衆に対する呼びかけはむずかしくなり、島宇宙化・細分化された小衆の形成がすすむからである。小衆はそれぞれの関心にそって候補者のサイトを閲覧するようになるから、如何に多くのニーズを拾い上げ、そのニーズ(問題)を解決する能力があるかがこれからの政治家に今一層に問われる能力である。
 
 そうであるからネット選挙解禁は政治家を楽にするものではない。少なくとも大衆向けアジェンダのみにそった政治・選挙活動は通用しなくなるだろうし、有権者はより厳しい目で候補者が提示したアジェンダを見るようになる。

 そういう意味でネット選挙解禁は政治家を大変にするだろうが、それは適格者がバッチをつける結果になるから、有権者にとっては大いにメリットのあることである。
 
 

 
 

 

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